逆説の10ヶ条

何か強い困難に見舞われた時
不条理な出来事に遭遇した時
僕はこの逆説の10ヶ条を思い出します。
物事にはポジティブな側面とネガティブな側面が必ずあります。
どちらか一方だけしか見ない在り方は
不幸を創り出します。
ニュートラルに視点に立つ。
これが本当に大事です。

逆説の10か条

  1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。
  2. 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
  3. 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。
  4. 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
  5. 正直で率直な在り方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
  6. 最大の考えを持った最も大きな男女は、最小の心を持った最も小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
  7. 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。
  8. 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。
  9. 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
  10. 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

(ケント・M・キース)

あなたを覚醒と成長、健康に導く2022年のイヤーメッセージ

2022年のイヤーメッセージ

私たちは、魂、精神、肉体の三位が一体となった存在です。

ですが、多くの人たちはそのことに気づいておらず、統合的な意識の段階に至っている人たち、つまり三位一体の存在欲求を満たそうとしている人たちは、全人口の5%にも満たないと推計されています。

人は今の自分を変えたくない

言い換えれば、世界人口の95%は統合以前の欠乏欲求の段階に留まっている、ということです。

欠乏欲求の段階は大きく分けて4つあり、それぞれの段階に深く固着(同一化)し、自分とは異なる段階の考え方や価値観に激しく反発します。

これは、ほとんどの人たちは、自らの成長を拒み、積極的に反統合的態度を示すことを意味します。

要するに、今の自分を変えたくないのです。

人は成長することをやめられない

一方、多くの人たちが、自己啓発、自己変容を目指し、自らを成長させようと試みています。

スキルアップのため、昇進のため、事業の成功のため、より良い人間関係を作るため、道徳的な人間になるため、他人に優しくなるため、心の平安を得るため、人生を豊かさで満たすため、理想の現実を引き寄せるため、本当の自分に出会うため、社会をもっと良くするため、この世の真実を知るため、などなど、その理由は多種多様です。

有史以来、人類は自らを発達・成長させ続けて、地球の生態系の頂点に君臨するに至っています。

これは、成長したいという衝動が、本能に根付いたものだということを意味します。

つまり、人は成長することをやめられないのです。

今の自分を変えたくないと強く思いながら、変わらずにはいられない。

ここに、人類が抱える深刻な矛盾と葛藤があります。

魂意識の欠落と一切皆苦

成長しない人間など一人も居ません。誰もがこの矛盾と葛藤を抱えながら生きているのです。

この葛藤は、精神の自分の発達・成長に伴って引き起こされるものです。成長痛のようなものと言えるでしょう。

問題は、精神だけでは、この葛藤から抜け出すのが極めて難しいことにあります。

自らに起きている矛盾と葛藤を客観的視点で見つめる必要があるからです。

精神の「メタ思考」という能力を使えば、一つ上の視点に立つことはできますが、これにも限界があります。どれだけ上に上がっても、思考は思考自身を観ることができないからです。

魂の視点で精神の自分を観ることが、どうしても必要なのです。

ですが、ほとんどの人の魂の意識は深い眠りの中にあり、魂の自分があることを認識することすらできないでいます。

ブッダは「一切皆苦(この世界の全てのものは苦しみである)」を説きました。

自己矛盾と葛藤から生まれるストレスが、肉体に及び、実際に様々な苦痛を無限に生み出し続けているのです。

そうした人間の持つ矛盾と葛藤と向き合い、自己の成長と覚醒、健康に向かおうとする人たちの道を照らすのが、僕の使命(Path Illuminator/パス イルミネイター:道を照らす者)であり、そして、あなたの来年を照らすのが、2022年のイヤーメッセージなのです。


あなたを覚醒と成長、健康に導く2022年のイヤーメッセージ

内容

  • 2022年がどのような流れなのか
  • どういったことに気を付けておくと良いか
  • 何に集中して取り組めば良いのか
  • 今の私の選択のまま行くとどうなるのか
  • 何を変えていけば良いのか
  • 自分の成長に関するヒント
  • 目覚めに関するヒント

などを、【健康】【人間関係】【仕事】【財政】【環境】【時間】といった6つの側面に分けてメッセージの形にしてお届けします。

健康

あなたの人生の基盤である健康。肉体面だけでなく精神的な健康面がどのように示されるかで、人生の優先順位が変わります。

人間関係

パートナー。家族。友人。お客様。様々な人間関係があなたの人生を創り上げています。

仕事

仕事とは、生きていくためにしなければならない労働ではありません。あなたの魂が決めてきた人生の役割を果たす事です。

財政

あなたの人生を支えているのが、この項目です。財政面においてどのような流れを創るかで人生の流れも変わってしまいます。

環境

どのような環境に身を置くのか。これはあなたの人生に多大な影響を与えます。

時間

どのような時間を過ごすのか、それがあなたの人生を現しています。

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雨上がり決死隊解散に学ぶ「風の時代」の生き方

雨上がり決死隊解散

2021年8月17日、雨上がり決死隊が解散を発表した。個人的にものすごい衝撃を受けた。この十数年こそテレビを見ていないものの、子供の頃から僕は根っからのテレビっ子で、特に無類のお笑い好きだった。特段、雨上がり決死隊のファンというわけではなかったが、かたっぱしからお笑い番組を見ていたし、アメトークも初回から見ていた記憶がある。

限定公開されていた、アメトーーク特別編 雨上がり決死隊解散報告会をYuouTubeで観た。様々な感情が入り乱れた。かなりの人たちが視聴したようで、テレビでもネットニュースでも大きく扱われ、賛否両論が巻き起こった。何百万人の人が放送を視聴し、数千万人の人がこのニュースを知った。それだけ世間の耳目を集めた出来事だったのだ。

とてつもない喪失感と覚悟

番組終盤、FUJIWARAのフジモンが、泣きながらにコメントしているのが印象的だった。あれは、なくなるはずのないものが、なくなってしまう、そのとてつもない喪失感に対する素直な気持ちの表れだと感じた。何年かかってもいいから再結成してください、と懇願するフジモンの気持ちもよくわかる。だが、それは決してないだろう。そのあとの覚悟の完全に決まり切った蛍ちゃんの表情と言葉が、明確に決別と前進の意思表示をしていたからだ。完全に区切りをつけた人の顔だった。ああ、次のステージへ進むのだな、と。

どの立場でどう受け取るか

今回に限ったことではないが、彼らの生き方や出した結論に対して賛否を論ずることに意味はない。宮迫博之には宮迫博之の人生があり、蛍原徹には蛍原徹の人生がある。完全に彼らだけのものである。他人の人生にとやかくあーだこーだ言うより、観る側がどの立場でどう受け取るか、そして何を学びどのような気づきを得て、自分の人生に活かすかが重要である。

僕は、魂感自在という生き方を伝える立場として、学びの姿勢で受け取ろうという意思を持って観た。

僕が受け取ったもの

本人たちにそのつもりは全くないと思うが、僕にはあの放送の登場人物たちは、少なくともこの数年、いや、おそらく今までの人生をかけて、観る人たちに重要なメッセージを伝えようとしているように感じた。一連の騒動は、最初から仕組まれた(実際には自分たちで仕組んだ)劇である、と。そして、そのテーマは時代の変わり目、つまり地の時代から風の時代への移行である。

200年に一度の時代の変わり目

西洋占星術では、約200年周期で時代のエレメント(元素)が変化する、とされている。その元素は、

の4つ。

それまで約200年続いていたのが「地の時代」。それが「風の時代」へ移行する。この時代の変わり目には大きなパラダイムシフトが起きる。パラダイムシフトとは、その時代において当然と考えられていた常識や社会全体の価値観などが、劇的に、革命的に変化することを指す。つまり、地球規模で常識がことごとく覆るのだ。

地の時代
地の時代は18世紀くらいから始まり、産業革命が始まる頃に完全に幕が開けた。地の時代の特徴である、物質的な豊かさや生産性、基盤、安定を象徴している出来事である。
風の時代
風の時代は20世紀後半から始まり、本格的に始まったのが、2020年12月22日だとされている。情報、体験、目に見えないもの、革新、循環といったものが特徴である。

地の時代と風の時代の対比

旧時代である「地の時代」の象徴となったのが、アメトーークという番組、テレビ朝日というテレビ局、吉本という芸能事務所、所属という働き方、芸人という肩書き、雨上がり決死隊という屋号(コンビ名)。

これからの時代である「風の時代」の象徴がYouTubeという動画共有プラットフォーム、独立、自立、個人である。

僕や彼らのような世代は、生まれた時から風の時代になっている若い世代と違い、地の時代でのキャリアをしっかり積んだ上で、風の時代に合わせた生き方へのシフトを強いられている。時代の変わり目に生きている人の、避けられない宿命である。その中で、一人一人が足掻いてもがいて、様々な選択や決断をしていかなければならない。その葛藤や苦悩の模様が、アメトーーク特別編 雨上がり決死隊解散報告会で繰り広げられていたのだ。

長くなったので、次回に続く。

胆管ガンでした

病院へ

父親の入院先に母親と行ってきた。担当医からの説明を聞くためだ。

結論から言うと、父親の胆管狭窄の原因は胆石とかではなく、ガンであった。具体的な病名は肝外胆管ガンである。黄疸の原因として、想定中最悪のケースである。正直、こんなところにガンができるとは、知らなかった。

担当外科医の説明イラスト

胆管ガンの治療法

担当外科医による説明によると、胆管ガンの治療方法は基本的にこの3つになるとのこと。

  1. 手術による切除
  2. 化学療法(抗がん剤)
  3. 放射線治療

いわゆるガンの三大療法というやつだ。このうち、抗がん剤と放射線治療は、胆管がんにはあまり有効な手段ではないとのこと。抗ガン剤が効かないガン、つまり、手術で取り除くしかない。

実際の手術は、病変した胆管だけでなく、胃の一部、十二指腸全部、胆のう、膵臓の一部、そしてそのあたりのリンパ節といった広範囲の切除を行う、結構大掛かりなものになるとのこと。

手術に先立ち、まず黄疸の治療が必要となる。具体的にはチューブを挿入して胆汁を十二指腸に排出するというものだが、現時点ではまだ黄疸の症状が治まっていないため、もう少し詳しく検査し、退院後は通院治療で肝臓の回復を待ってからの手術となる。順調にいって約1ヶ月後だということである。

胆管ガンの手術後

手術後は食事面に制限がかかるのではと思ったが、そこは必要ないとのこと。むしろ食べる量を増やした方が良いくらいだそうだ。なぜなら、消化器官を手術すると、消化機能が落ちて痩せるからである。

また、父親のケースでは、健康な膵臓の一部を切り取ることになるため、結果的に膵臓の機能も落ちる。現代医学においては、膵臓は一度壊れたら再生しない臓器と認識されている。言い換えれば、現代医学には膵臓を再生させる術がないのだ。要するに、膵臓に問題が無くても切ってしまえば結果的に糖尿病になってしまう、ということだ。それだけではない。80歳近い年齢からくる回復力の低下、免疫力の低下による感染症のリスク、精神的ショックからくる認知力の低下などなど、この先確実に待っているのは様々な試練であり、QOLQuality of life(クオリティ オブ ライフ:生活の質)の低下は避けられない。これが医療の限界であろう。

オプティマルヘルスの観点

ここまで状態が悪くなると、採れる選択肢がほとんどないな、と感じる。リスク承知で手術するより他はなさそうだ。

オプティマルヘルスの健康観であれば、そもそもこのような結果を招かないうちに、常に最高最善の健康を保とうとするので、病気を治す、という考え方そのものが馴染まない。それが西洋だろうが東洋だろうが代替だろうが統合だろうが、病気を治すのは医療の領域なのだ。あとは手段の問題である。

今までも、ずっとオプティマルヘルスの観点から様々な選択肢を父親には伝えてきたが、それが採用されることはなかった。そしてついにはガンである。アリとキリギリス。この事実はそれを僕に思い起こさせた。多くの人は、キリギリスのように、大いなる危機に直面することで初めて自分の状況を認識することになるのだろう。認識したとて、大半は手遅れである。

危機を機会に

逆に言えば、この生命に危機に直面することで、気づきを得る機会にすることはできる。肉体に起こるガンという現象は、愛の欠如の結果である、とも言える。この観点では、愛のない環境でなんとか生き延びようとした細胞がガン化する、と表現できる。たとえそれが肉体組織全体の破滅になろうとも、細胞にとって生きることが全てだからだ。

肉体を愛することができれば、自ずと違った可能性も存在するだろう。ガンという病気を治すのではない。ガン化するほどの状況に追い込まれている肉体を、細胞を愛するのだ。今までどれだけ自分のことをないがしろにしてきていても、何歳になっていても、いつからだって自分を愛し始めることは、出来る。必ずできる。その結果、肉体に何が起こるかはわからない。いつだって結果がどうなるかはやってみないとわからないものなのだ。しかし、結果の如何にかかわらず、自分を愛することには無限の価値がある。

呼吸

自分を愛する。この、極めてシンプルな言葉を実際に行動に移すのは、多くの人にとって極めて難しいように見える。実際に、手段などなんでも構わないのだが、自分を愛する入り口として最も有効なのは、呼吸である。なぜなら、我々の肉体の細胞が生命活動を維持するために最も必要なのが、酸素だからである。酸欠で苦しんだ細胞が生き延びるためにガン化することを考えれば、愛を酸素に見立てることでその理解を深めることができるはず。

父親のガンがどうなっていくか、結果は全くわからない。しかし、肉体を愛すること。呼吸を通じて細胞に酸素を与えること。このことは改めて父親に伝えていこうと思う。僕は奇跡を信じない。自分のするべきと感じたものをするのみだ。


父親の入院

父が入院した。詳しいことは、これからの確定診断を待つことになるが、今のところ、胆管狭窄(たんかんきょうさく)を起こしているとのこと。

胆管とは、肝臓で作られた胆汁を十二指腸に流す管のことで、ここが何らかの原因で詰まって胆汁が流れなくなってしまったらしい。

胆汁というのは、肝臓で絶えず生成される液体で、脂肪を乳化して消化を助ける胆汁酸と、古くなって破壊された赤血球のヘモグロビンが肝臓で代謝された胆汁色素が一緒になったものだ。ちなみに、大便が茶色なのは、この胆汁色素によるもので、胆管が詰まって胆汁が出なくなると、便は白くなり、黄疸症状が起きる。

改めて問われる健康観

僕自身の2021年のハーフイヤーメッセージの健康に、こうあった。

外界からの情報に流されることなく、今自分たちが何をすべきかを賢明に見極めていく。栄養学、医学、心理学、脳科学、形而上学、物理学。それらを超えた、生命エネルギー、気、プラーナを調える、いわば呼吸学を実践する段階です。

確かにこの10年で、僕の健康観は劇的に変わった。現在は、肉体と精神を愛することに行き着いた。そして呼吸法を通じて愛を実践するスタイルを採っている。

今までと全く次元の異なる視点で生命現象を捉えていくのです。これは精神や肉体にとって大いなる祝福です。

精神や肉体が健康を保つために必要なことは、愛されること。これに尽きる。ただ、視点が精神や肉体のままでは、誰かに愛されることを求め続けることになる。視点が今までと全く異なる次元、つまり魂の視点になって、精神と肉体という生命現象を捉えることができた時、初めて自分を愛することが可能となる。

愛するということ

僕ができること

愛の欠乏が精神の不安を掻き立て、未消化の感情エネルギーが肉体に影響を及ぼす。父の病もまた、愛の欠乏だろうと僕は感じている。ただ、父の過去の生き方を責めたとて何にもならない。これさえ飲めばたちどころに病気が治るみたいなものも知らないし、僕が病気を治すこともできない。僕ができることは、父が自分の精神や肉体をいたわり、ねぎらい、愛することができるように導くことだけだろうと思う。愛することで病気が治るかどうかわわからない。どのみち、人は必ず死ぬ。しかし、疑う余地なく、父の体や心は父に愛されたがっているのだ。自分を愛し愛される体験。そこにこそ癒しの本質が必ずある。僕はそう信じている。


なぜ人々はオリンピックに熱狂するのか

tokyoolympics2020

世間と自分との温度差

オリンピック開幕前の猛批判は何処へやら。連日の金メダルラッシュに多くの日本人が熱狂しているように見える。

僕も、開会式を録画で観るほどには注目している。ピクトグラムとドローンは秀逸だと思ったし、感動もした。卓球のミックスダブルスペアは微笑ましいと思ったし、スケートボードの堀米選手の意識の高さは感心させられた。だが、正直日本人選手がメダルを取ったからといって、それほど強く感情が揺さぶられることはない。

僕が熱中して観たのは、長野オリンピックくらいまで。それ以降の大会は、ほぼ視聴しておらず、開催地もメダリストも、うろ覚えである。なぜかと言われれば、単純に興味が湧かなくなったからである。あと、そもそもあまりテレビを観なくなったという理由もある。

オリンピックだけではない。思い出してみれば、サッカーも、F1も、テニスも、野球も、ゴルフも、昔は日本人選手の活躍に心踊らされていた時期が確かにあった。それらもいつの間にか熱がなくなった。

最近では、2019年日本開催のラグビーのW杯が記憶に新しいが、僕は1秒も観ておらず、ニュースで流れる熱狂もいまいちピンとこず、流行語大賞まで取っていることから、よほどのことが起きたんだな、と後から認識したくらい。

この熱狂はなんだ?

自分と縁もゆかりもない人が、自分がよく知らない競技で頑張っている姿を、それがただ日本人だからという理由だけで、まるで我が事のように応援する。冷静に、客観的に見るとちょっと不思議な感覚を覚えるのだが、ほとんどの人は、このことに疑問すら抱かないのではないだろうか。なぜ僕は熱狂できないのだろうか。彼らと僕とは何が違うのだろうか。このことについて考察してみると、いくつか見えてくるものがある。

日本人というアイデンティティ

一つ目は、日本人というアイデンティティである。アイデンティティについては、以下に引用する。

アイデンティティとは「自他共に認める自分像」です。
「自分はこういう人間だ」という自己イメージの中で、自分自身が誇りや自信を持てる自分像。かつ「あなたはこういう人間ですね」と自分以外の人から認められている自分像。

アイデンティティとは

つまり、彼らは「私は日本人だ」と思っている。なんだ、当たり前のことじゃないか。あなたはそう言うかもしれない。だが、それはあなたが自分と日本人と同一視していることを意味する。だから、同じ日本人の活躍を我が事のように喜べるのだ。僕にはこれが、無い。

確かに、僕は日本人だし、日本国籍だし、日本語を母国語としている。が、これらは、僕の肉体の特徴を表してはいるものの、僕そのものでは無いのだ。

ミラーニューロン

二つ目は、ミラーニューロンである。ミラーニューロンについては以下に引用する。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)とは、霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をすることから名付けられた。

ミラーニューロン

例えば、人が歩いているのを見ると、自分の歩いている時の神経細胞も活性化する、と言うことである。なぜこんな仕組みがあるのか。それは群れを作るためである。猿から進化した人間は、集団行動をすることで万物の霊長となった。単独では自然界の数々の脅威に対処できないが、強い群れの中に居ることで生存確率はぐっと上がる。このために必要なのが共感能力であり、言語が生み出されるはるか以前からこのミラーニューロンが発達してきたのだ。

多くの動物たち同様、猿から進化した人間にも縄張り意識がある。自分が属している群れのメンバーの活躍は、縄張りの強固さや縄張りの拡大を感じさせる。これは本能的な生存圏の安定を意味する。不安が解消され、大いなる喜びが湧き上がる。オリンピックと言う国際間の争いにおける日本人の活躍は、この原始的感情が大いに刺激される、と言うわけだ。そして、僕にはこれが、無い。

僕にミラーニューロンがないとか、そう言う話ではない。正直、僕の本能的な縄張り意識は相当なものだと自覚して居る。だが、日本人という群れに属している感覚が無いのだ。だから、日本人選手が金メダルをとっても、すごいと思うし感動もするが、いい意味で、どこまでいっても僕には他人事なのだ。

孤立と自立

アイデンティティとミラーニューロン。この二つに共通するのは、自分という基盤の脆弱さからくる孤独・孤立を回避する働きだと言える。結局のところ、この両者は、同一化現象を心理学的に見るか、脳科学的に見るかだけの違いなのかもしれない。

いずれにせよ、群れることで生き延びてきた人間にとって、孤立は死に直結する最も恐ろしい状況だということなのだろう。

魂感自在に達した僕は、この恐怖から解放されている。自分の存在基盤を、自分自身に置き、日本、あるいは日本人であることに置いていない。つまり、自立している。これが決定的な差を生み出している。だから、感情的にコントロールされず、フラットにオリンピックを楽しむことができるのだ。


The Empty Chair

午前中に仕事を済ませ昼ごはんを食べた後、夏のひまわりを見に牛窓までドライブに行った。強い日差し。むせ返る草いきれ。青い空、青い海。太陽の光を求めて咲く、たくさんの向日葵。夏を感じさせてくれる光景だった。

生命のダイナミックな営みが、そこにあった。

太陽に向けて咲き誇る牛窓のひまわり

そのまま牛窓オリーブ園に向かった。春に桜を見に来て以来。瀬戸内海を一望できるこの見晴らしは、やはり格別である。何気なく、椅子越しの写真を撮った。

牛窓オリーブ園から瀬戸内海を望む

訃報

帰宅早々、知り合いの突然の訃報を耳にする。癌だった。

急いで着替えて弔問に向かった。ご遺体と対面し、焼香をあげさしていただいた。2ヶ月ほど前に、我が家でお会いしたときは、まさか亡くなるとは夢にも思わなかった、その人が、横たわっていた。ご本人も死ぬつもりはなかっただろう。僕より2歳も若い。二人のお子さんもまだ10代。さぞや無念であっただろう。

エンプティチェア

帰宅し、落ち着いた頃、ふと、言葉が浮かんできた。

「エンプティ チェア」
空いた椅子、という意味だ。何かメッセージがある。そう直感した。

調べてみると、THE EMPTY CHAIR という曲と出会った。
かのスティングが、ISISによって斬首された米国人ジャーナリスト James Foley のドキュメンタリー映画のために書き下ろした曲だそうだ。

Sting – The Empty Chair

If I should close my eyes, that my soul can see,
And there’s a place at the table that you saved for me.
So many thousand miles over land and sea,
I hope to dare, that you hear my prayer,
And somehow I’ll be there.
目を閉じると心に浮かぶ
君が僕に取っておいてくれたそのテーブルの居場所
陸海を幾千マイルも越えた遥か遠くで
君に僕の願いが聞こえればと強く思う
何とか帰り着くから

It’s but a concrete floor where my head will lay,
And though the walls of this prison are as cold as clay.
But there’s a shaft of light where I count my days,
So don’t despair of the empty chair,
And somehow I’ll be there.
何の変哲もないコンクリートの床に僕は頭を横たえるのだろう
この監獄の壁は死体の様に冷たいけど
それでも一条の光に身を寄せ僕は日々を指折り数える
だから椅子に誰も座ってないからって悲観しないで
僕は何とか帰り着くから

Some days I’m strong, some days I’m weak,
And days when I’m broken I can barely speak,
The place in my head where my thoughts still roam,
Somehow I’ve come home.
気を強く持てる日もあれば、弱気になったり
口もきけぬほど打ちひしがれる日もある
でも頭の中の場所に今でも思いをめぐらせる
どうにか帰り着いた家に

And when the Winter comes and the trees lie bare,
And you just stare out the window in the darkness there.
Well I was always late for every meal you’ll swear,
But keep my place and the empty chair,
And somehow I’ll be there,
And somehow I’ll be there.
木々が葉を落とす冬が来たら
窓の外の暗がりに目を凝らしてごらん
食事の時間に僕はいつも遅れてたから君は文句を言うだろうけど
僕の場所と空の椅子はそのままに取っておいてね
何とか帰って来るから
僕は何としてでも

歌詞和訳 Sting – The Empty Chair https://denihilo.com/the-empty-chair/

理不尽かつ暴力的な死に対して、最後まで抗い、生きようとした人の心境が、シンプルかつ繊細に表現されている。

癌に倒れた彼女も、おそらくはこのような想いを抱いていたのではないか。ご自宅に弔問させてもらって、その念というかなんというか、強く感じるものが、僕にはあった。

メメント・モリ(死を憶え)

人は死ぬ。必ず死ぬ。死によって肉体は消滅し、精神も消え去る。だが、魂に死はない。


魂にとって、死は一つの区切りに過ぎない。故に、事実として、死を過度に恐れる必要はない。だからと言って、生を重んじなくて良い、ということではない。

むしろ、死があるからこそ、今生の生を大切にすることができる。死を恐れず、生に執着せず、死を迎えるその瞬間まで、自分を幸せにして、生き切る。

気づきを与えてくれたことに深い感謝と哀悼を捧げながら、僕は改めて、自分のすべきことと向き合う覚悟を深めた。


冷えのぼせ

自分は冷え性だという自覚のある女性は多いようだ。最近では、冷え性だという男性の声も耳にする。そして、その症状は冬だけのものではなく、冷房を使う夏の時期にも現れる。気温が高いのに体が冷えていると感じたら、それはもう冷え性。

冷え症は自律神経のバランスがくずれたり、血行が悪くなるなどの原因で、年齢を重ねるごとに症状が悪化する傾向にある。ところがある実態調査によると、50代についで20代の若い世代に、重度の冷え性である「冷えのぼせ」を感じている人が多かったというのだ。

「冷えのぼせ」というのは、頭部が熱くなり、末端との温度差が大きくなり、その結果、冷えとのぼせが混在した状態のことをいう。こうなると体温を一定に保つために交感神経と副交感神経は通常より頻繁にはたらかなければならず、その結果、自律神経自体がどんどんバランスをくずしていく。

自律神経のバランスの乱れから、イライラする、寝付きが悪い、汗や顔のほてりがひどい、といったようにさまざまな症状を引き起こし、血行不良型の生理痛の悪化や、ニキビ・吹き出物、肩こり・腰痛、便秘や下痢などの胃腸の不調など、その他の症状も現れる。水分代謝異常型のむくみやめまい、頭痛を引き起こすことも。そして冷えは代謝の低下ももたらし、太りやすい体質にもなっていく。

なぜ、20代に「冷えのぼせ」を感じている人が多いのか・・・

生まれたときからエアコンを使う環境で生活をしてきたことに加え、運動不足や体を冷やしやすい食生活、ファッションなどの生活習慣が背景にあるのではないか、と言われている。自律神経のバランスのくずれは、どうやらこうした若い世代にも起こっているようだ。

困った症状が現れ負のスパイラルに陥ると、それに連動して様々な症状が追加され、それが当たり前のように繰り返される日々がやってくる。その状態が日常的になってくると、体はそこでバランスを取ろうと働くので、正常な状態に戻すことがどんどん難しくなってしまう。

今は「何となく冷え性かも」「我慢できる程度だし」と思っていても、放っておくのは危険。体からのサインを放置せず、必要な栄養をしっかり摂取し、自律神経のバランスを整えるためのケアをしていくことが大切だ。


HIRO

僕はこれまでうつ病を始め生き死にに関わるような状態を何度も経験してきました。ずっとずっと幸せについて深く深く探求してきました。本を読みセミナーを受け、なんだかんだやり尽くし行き着いたのは、幸せには、お金持ちになったらとか成功したらとか結婚したらとか、全然関係ないということです。

皆さんも子供の頃を思い出してみてください。何が幸せかなんて悩むこともなくただただ幸せだったと思いませんか?

それがいつの間にか晴れやかな晴天のような気持ちがなくなってしまう。なぜなんだろう?僕が思うに、それは執着が原因だろうと。それが年齢を重ねるごとに増えていていくのだろうと。

執着というのは、あの人に認められたいだとか、あの人に好かれたいだとか、お金が欲しいとか、そう言ったいろんなものですね。これ別に執着が悪いものだというわけではないんです。ただ自分が求めていない執着にとらわれてしまうとどんどん心が曇ってくる。

繰り返しになりますが、僕は執着が悪いのだと言いたいのではありません。これって人の生存本能なんです。人間って群れを作る生き物なので、誰かと一緒にいないと危機感を感じるようにできています。生命の危機だと。あの人に嫌われてる。属している組織の中でこれを感じるとめちゃくちゃやばいわけですよ。もし群れから追い出されたら生きていけないですから。襲われてすぐ死んじゃうんで。だから、他人からどう思われるかを無茶苦茶気にするんです。だから執着するなって土台無理なんですよ。

ただ、僕が今までの人生で悟ったことは、本能を満たすことが人の幸せとは限らない、ということなんです。本能は人間が種として生き残るにはとても重要で役に立つんですが、個人の幸せに焦点を当てると必ずしもそうじゃやない。これが現代社会に生きる人達におきていることなんだなと思うわけです。

では、何が人の幸せなのでしょう?僕はこう定義しました。肉体を愛し、精神に平和をもたらし、魂の喜びを得るために集中して取り組みながら生きる。これが幸せ。

今、僕は幸せです。

これまでの経験で得たものを、惜しみなく幸せになりたい人たちに教えたい、そしてこの喜びを共に味わいたいと心から願っています。