病院へ
父親の入院先に母親と行ってきた。担当医からの説明を聞くためだ。
結論から言うと、父親の胆管狭窄の原因は胆石とかではなく、ガンであった。具体的な病名は肝外胆管ガンである。黄疸の原因として、想定中最悪のケースである。正直、こんなところにガンができるとは、知らなかった。
胆管ガンの治療法
担当外科医による説明によると、胆管ガンの治療方法は基本的にこの3つになるとのこと。
- 手術による切除
- 化学療法(抗がん剤)
- 放射線治療
いわゆるガンの三大療法というやつだ。このうち、抗がん剤と放射線治療は、胆管がんにはあまり有効な手段ではないとのこと。抗ガン剤が効かないガン、つまり、手術で取り除くしかない。
実際の手術は、病変した胆管だけでなく、胃の一部、十二指腸全部、胆のう、膵臓の一部、そしてそのあたりのリンパ節といった広範囲の切除を行う、結構大掛かりなものになるとのこと。
手術に先立ち、まず黄疸の治療が必要となる。具体的にはチューブを挿入して胆汁を十二指腸に排出するというものだが、現時点ではまだ黄疸の症状が治まっていないため、もう少し詳しく検査し、退院後は通院治療で肝臓の回復を待ってからの手術となる。順調にいって約1ヶ月後だということである。
胆管ガンの手術後
手術後は食事面に制限がかかるのではと思ったが、そこは必要ないとのこと。むしろ食べる量を増やした方が良いくらいだそうだ。なぜなら、消化器官を手術すると、消化機能が落ちて痩せるからである。
また、父親のケースでは、健康な膵臓の一部を切り取ることになるため、結果的に膵臓の機能も落ちる。現代医学においては、膵臓は一度壊れたら再生しない臓器と認識されている。言い換えれば、現代医学には膵臓を再生させる術がないのだ。要するに、膵臓に問題が無くても切ってしまえば結果的に糖尿病になってしまう、ということだ。それだけではない。80歳近い年齢からくる回復力の低下、免疫力の低下による感染症のリスク、精神的ショックからくる認知力の低下などなど、この先確実に待っているのは様々な試練であり、QOL=Quality of life(クオリティ オブ ライフ:生活の質)の低下は避けられない。これが医療の限界であろう。
オプティマルヘルスの観点
ここまで状態が悪くなると、採れる選択肢がほとんどないな、と感じる。リスク承知で手術するより他はなさそうだ。
オプティマルヘルスの健康観であれば、そもそもこのような結果を招かないうちに、常に最高最善の健康を保とうとするので、病気を治す、という考え方そのものが馴染まない。それが西洋だろうが東洋だろうが代替だろうが統合だろうが、病気を治すのは医療の領域なのだ。あとは手段の問題である。
今までも、ずっとオプティマルヘルスの観点から様々な選択肢を父親には伝えてきたが、それが採用されることはなかった。そしてついにはガンである。アリとキリギリス。この事実はそれを僕に思い起こさせた。多くの人は、キリギリスのように、大いなる危機に直面することで初めて自分の状況を認識することになるのだろう。認識したとて、大半は手遅れである。
危機を機会に
逆に言えば、この生命に危機に直面することで、気づきを得る機会にすることはできる。肉体に起こるガンという現象は、愛の欠如の結果である、とも言える。この観点では、愛のない環境でなんとか生き延びようとした細胞がガン化する、と表現できる。たとえそれが肉体組織全体の破滅になろうとも、細胞にとって生きることが全てだからだ。
肉体を愛することができれば、自ずと違った可能性も存在するだろう。ガンという病気を治すのではない。ガン化するほどの状況に追い込まれている肉体を、細胞を愛するのだ。今までどれだけ自分のことをないがしろにしてきていても、何歳になっていても、いつからだって自分を愛し始めることは、出来る。必ずできる。その結果、肉体に何が起こるかはわからない。いつだって結果がどうなるかはやってみないとわからないものなのだ。しかし、結果の如何にかかわらず、自分を愛することには無限の価値がある。
呼吸
自分を愛する。この、極めてシンプルな言葉を実際に行動に移すのは、多くの人にとって極めて難しいように見える。実際に、手段などなんでも構わないのだが、自分を愛する入り口として最も有効なのは、呼吸である。なぜなら、我々の肉体の細胞が生命活動を維持するために最も必要なのが、酸素だからである。酸欠で苦しんだ細胞が生き延びるためにガン化することを考えれば、愛を酸素に見立てることでその理解を深めることができるはず。
父親のガンがどうなっていくか、結果は全くわからない。しかし、肉体を愛すること。呼吸を通じて細胞に酸素を与えること。このことは改めて父親に伝えていこうと思う。僕は奇跡を信じない。自分のするべきと感じたものをするのみだ。