父親の入院

父が入院した。詳しいことは、これからの確定診断を待つことになるが、今のところ、胆管狭窄(たんかんきょうさく)を起こしているとのこと。

胆管とは、肝臓で作られた胆汁を十二指腸に流す管のことで、ここが何らかの原因で詰まって胆汁が流れなくなってしまったらしい。

胆汁というのは、肝臓で絶えず生成される液体で、脂肪を乳化して消化を助ける胆汁酸と、古くなって破壊された赤血球のヘモグロビンが肝臓で代謝された胆汁色素が一緒になったものだ。ちなみに、大便が茶色なのは、この胆汁色素によるもので、胆管が詰まって胆汁が出なくなると、便は白くなり、黄疸症状が起きる。

改めて問われる健康観

僕自身の2021年のハーフイヤーメッセージの健康に、こうあった。

外界からの情報に流されることなく、今自分たちが何をすべきかを賢明に見極めていく。栄養学、医学、心理学、脳科学、形而上学、物理学。それらを超えた、生命エネルギー、気、プラーナを調える、いわば呼吸学を実践する段階です。

確かにこの10年で、僕の健康観は劇的に変わった。現在は、肉体と精神を愛することに行き着いた。そして呼吸法を通じて愛を実践するスタイルを採っている。

今までと全く次元の異なる視点で生命現象を捉えていくのです。これは精神や肉体にとって大いなる祝福です。

精神や肉体が健康を保つために必要なことは、愛されること。これに尽きる。ただ、視点が精神や肉体のままでは、誰かに愛されることを求め続けることになる。視点が今までと全く異なる次元、つまり魂の視点になって、精神と肉体という生命現象を捉えることができた時、初めて自分を愛することが可能となる。

愛するということ

僕ができること

愛の欠乏が精神の不安を掻き立て、未消化の感情エネルギーが肉体に影響を及ぼす。父の病もまた、愛の欠乏だろうと僕は感じている。ただ、父の過去の生き方を責めたとて何にもならない。これさえ飲めばたちどころに病気が治るみたいなものも知らないし、僕が病気を治すこともできない。僕ができることは、父が自分の精神や肉体をいたわり、ねぎらい、愛することができるように導くことだけだろうと思う。愛することで病気が治るかどうかわわからない。どのみち、人は必ず死ぬ。しかし、疑う余地なく、父の体や心は父に愛されたがっているのだ。自分を愛し愛される体験。そこにこそ癒しの本質が必ずある。僕はそう信じている。


なぜ人々はオリンピックに熱狂するのか

tokyoolympics2020

世間と自分との温度差

オリンピック開幕前の猛批判は何処へやら。連日の金メダルラッシュに多くの日本人が熱狂しているように見える。

僕も、開会式を録画で観るほどには注目している。ピクトグラムとドローンは秀逸だと思ったし、感動もした。卓球のミックスダブルスペアは微笑ましいと思ったし、スケートボードの堀米選手の意識の高さは感心させられた。だが、正直日本人選手がメダルを取ったからといって、それほど強く感情が揺さぶられることはない。

僕が熱中して観たのは、長野オリンピックくらいまで。それ以降の大会は、ほぼ視聴しておらず、開催地もメダリストも、うろ覚えである。なぜかと言われれば、単純に興味が湧かなくなったからである。あと、そもそもあまりテレビを観なくなったという理由もある。

オリンピックだけではない。思い出してみれば、サッカーも、F1も、テニスも、野球も、ゴルフも、昔は日本人選手の活躍に心踊らされていた時期が確かにあった。それらもいつの間にか熱がなくなった。

最近では、2019年日本開催のラグビーのW杯が記憶に新しいが、僕は1秒も観ておらず、ニュースで流れる熱狂もいまいちピンとこず、流行語大賞まで取っていることから、よほどのことが起きたんだな、と後から認識したくらい。

この熱狂はなんだ?

自分と縁もゆかりもない人が、自分がよく知らない競技で頑張っている姿を、それがただ日本人だからという理由だけで、まるで我が事のように応援する。冷静に、客観的に見るとちょっと不思議な感覚を覚えるのだが、ほとんどの人は、このことに疑問すら抱かないのではないだろうか。なぜ僕は熱狂できないのだろうか。彼らと僕とは何が違うのだろうか。このことについて考察してみると、いくつか見えてくるものがある。

日本人というアイデンティティ

一つ目は、日本人というアイデンティティである。アイデンティティについては、以下に引用する。

アイデンティティとは「自他共に認める自分像」です。
「自分はこういう人間だ」という自己イメージの中で、自分自身が誇りや自信を持てる自分像。かつ「あなたはこういう人間ですね」と自分以外の人から認められている自分像。

アイデンティティとは

つまり、彼らは「私は日本人だ」と思っている。なんだ、当たり前のことじゃないか。あなたはそう言うかもしれない。だが、それはあなたが自分と日本人と同一視していることを意味する。だから、同じ日本人の活躍を我が事のように喜べるのだ。僕にはこれが、無い。

確かに、僕は日本人だし、日本国籍だし、日本語を母国語としている。が、これらは、僕の肉体の特徴を表してはいるものの、僕そのものでは無いのだ。

ミラーニューロン

二つ目は、ミラーニューロンである。ミラーニューロンについては以下に引用する。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)とは、霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をすることから名付けられた。

ミラーニューロン

例えば、人が歩いているのを見ると、自分の歩いている時の神経細胞も活性化する、と言うことである。なぜこんな仕組みがあるのか。それは群れを作るためである。猿から進化した人間は、集団行動をすることで万物の霊長となった。単独では自然界の数々の脅威に対処できないが、強い群れの中に居ることで生存確率はぐっと上がる。このために必要なのが共感能力であり、言語が生み出されるはるか以前からこのミラーニューロンが発達してきたのだ。

多くの動物たち同様、猿から進化した人間にも縄張り意識がある。自分が属している群れのメンバーの活躍は、縄張りの強固さや縄張りの拡大を感じさせる。これは本能的な生存圏の安定を意味する。不安が解消され、大いなる喜びが湧き上がる。オリンピックと言う国際間の争いにおける日本人の活躍は、この原始的感情が大いに刺激される、と言うわけだ。そして、僕にはこれが、無い。

僕にミラーニューロンがないとか、そう言う話ではない。正直、僕の本能的な縄張り意識は相当なものだと自覚して居る。だが、日本人という群れに属している感覚が無いのだ。だから、日本人選手が金メダルをとっても、すごいと思うし感動もするが、いい意味で、どこまでいっても僕には他人事なのだ。

孤立と自立

アイデンティティとミラーニューロン。この二つに共通するのは、自分という基盤の脆弱さからくる孤独・孤立を回避する働きだと言える。結局のところ、この両者は、同一化現象を心理学的に見るか、脳科学的に見るかだけの違いなのかもしれない。

いずれにせよ、群れることで生き延びてきた人間にとって、孤立は死に直結する最も恐ろしい状況だということなのだろう。

魂感自在に達した僕は、この恐怖から解放されている。自分の存在基盤を、自分自身に置き、日本、あるいは日本人であることに置いていない。つまり、自立している。これが決定的な差を生み出している。だから、感情的にコントロールされず、フラットにオリンピックを楽しむことができるのだ。


The Empty Chair

午前中に仕事を済ませ昼ごはんを食べた後、夏のひまわりを見に牛窓までドライブに行った。強い日差し。むせ返る草いきれ。青い空、青い海。太陽の光を求めて咲く、たくさんの向日葵。夏を感じさせてくれる光景だった。

生命のダイナミックな営みが、そこにあった。

太陽に向けて咲き誇る牛窓のひまわり

そのまま牛窓オリーブ園に向かった。春に桜を見に来て以来。瀬戸内海を一望できるこの見晴らしは、やはり格別である。何気なく、椅子越しの写真を撮った。

牛窓オリーブ園から瀬戸内海を望む

訃報

帰宅早々、知り合いの突然の訃報を耳にする。癌だった。

急いで着替えて弔問に向かった。ご遺体と対面し、焼香をあげさしていただいた。2ヶ月ほど前に、我が家でお会いしたときは、まさか亡くなるとは夢にも思わなかった、その人が、横たわっていた。ご本人も死ぬつもりはなかっただろう。僕より2歳も若い。二人のお子さんもまだ10代。さぞや無念であっただろう。

エンプティチェア

帰宅し、落ち着いた頃、ふと、言葉が浮かんできた。

「エンプティ チェア」
空いた椅子、という意味だ。何かメッセージがある。そう直感した。

調べてみると、THE EMPTY CHAIR という曲と出会った。
かのスティングが、ISISによって斬首された米国人ジャーナリスト James Foley のドキュメンタリー映画のために書き下ろした曲だそうだ。

Sting – The Empty Chair

If I should close my eyes, that my soul can see,
And there’s a place at the table that you saved for me.
So many thousand miles over land and sea,
I hope to dare, that you hear my prayer,
And somehow I’ll be there.
目を閉じると心に浮かぶ
君が僕に取っておいてくれたそのテーブルの居場所
陸海を幾千マイルも越えた遥か遠くで
君に僕の願いが聞こえればと強く思う
何とか帰り着くから

It’s but a concrete floor where my head will lay,
And though the walls of this prison are as cold as clay.
But there’s a shaft of light where I count my days,
So don’t despair of the empty chair,
And somehow I’ll be there.
何の変哲もないコンクリートの床に僕は頭を横たえるのだろう
この監獄の壁は死体の様に冷たいけど
それでも一条の光に身を寄せ僕は日々を指折り数える
だから椅子に誰も座ってないからって悲観しないで
僕は何とか帰り着くから

Some days I’m strong, some days I’m weak,
And days when I’m broken I can barely speak,
The place in my head where my thoughts still roam,
Somehow I’ve come home.
気を強く持てる日もあれば、弱気になったり
口もきけぬほど打ちひしがれる日もある
でも頭の中の場所に今でも思いをめぐらせる
どうにか帰り着いた家に

And when the Winter comes and the trees lie bare,
And you just stare out the window in the darkness there.
Well I was always late for every meal you’ll swear,
But keep my place and the empty chair,
And somehow I’ll be there,
And somehow I’ll be there.
木々が葉を落とす冬が来たら
窓の外の暗がりに目を凝らしてごらん
食事の時間に僕はいつも遅れてたから君は文句を言うだろうけど
僕の場所と空の椅子はそのままに取っておいてね
何とか帰って来るから
僕は何としてでも

歌詞和訳 Sting – The Empty Chair https://denihilo.com/the-empty-chair/

理不尽かつ暴力的な死に対して、最後まで抗い、生きようとした人の心境が、シンプルかつ繊細に表現されている。

癌に倒れた彼女も、おそらくはこのような想いを抱いていたのではないか。ご自宅に弔問させてもらって、その念というかなんというか、強く感じるものが、僕にはあった。

メメント・モリ(死を憶え)

人は死ぬ。必ず死ぬ。死によって肉体は消滅し、精神も消え去る。だが、魂に死はない。


魂にとって、死は一つの区切りに過ぎない。故に、事実として、死を過度に恐れる必要はない。だからと言って、生を重んじなくて良い、ということではない。

むしろ、死があるからこそ、今生の生を大切にすることができる。死を恐れず、生に執着せず、死を迎えるその瞬間まで、自分を幸せにして、生き切る。

気づきを与えてくれたことに深い感謝と哀悼を捧げながら、僕は改めて、自分のすべきことと向き合う覚悟を深めた。